手術台に上がる前、患者の意識は「病気を身体から取り除くこと」に集中している。当然だ。腫瘍の広がりや悪性度を突きつけられれば、命を守ることが最優先になる。だが、術後の生活が始まって初めて、甲状腺という小さな臓器が担っていた役割の大きさに圧倒されることになる。
第1の壁は、エネルギー代謝の急激な変化だ。甲状腺ホルモンは、いわば人体の「アクセル」である。臓器をすべて摘出すると、自前のアクセルは完全に消失する。人工的にホルモンを補うものの、天候やストレス、体調の波に合わせた微細な自動調整はもう行われない。朝起き上がれない、夕方になると電池が切れたように動けないといった倦怠感に悩まされるケースは少なくない。
第2の壁は、見た目と内面のギャップである。首元に残る傷跡は時間とともに薄れるが、首のつっぱり感や飲み込みにくさ、喉の異物感は長期間にわたって残ることがある。周囲からは「元気そうに見える」と言われる分、本人にしかわからない不快感が精神的な孤独を深めていく。
そして第3の壁が、生涯にわたる服薬と定期通院の重圧だ。「薬さえ飲めば元通り」という単純な話ではない。飲み忘れへの恐怖や、薬の量が合わない時期の体調不良が、じわじわと精神を削っていく。