滋賀県の白地図を眺めると、誰もが一度は感じる違和感があります。それが俗に言われる「滋賀県庁の南寄り問題」です。県の幾何学的な重心は琵琶湖の中央部(近江八幡市沖付近)にあり、湖北の長浜市や湖東の彦根市から見ると、県庁が置かれている大津市は京都府との境に極端に偏っています。
なぜ中東部の平野部ではなく、南西の端である大津に中枢機関が置かれ続けたのでしょうか。そこには単なる面積の重心では測れない「歴史的物流と都市機能の必然性」が存在します。
第一の理由は、「水陸交通の絶対的な結節点」であった点です。古代の天智天皇による「近江大津宮(大津京)」造営に始まり、江戸時代には東海道五十三次最大の宿場町「大津宿」として栄え、「大津百町」と呼ばれる大都市を形成していました。琵琶湖の舟運で集められた北陸・東海の物資はすべて大津の港(大津百艘船など)に荷揚げされ、逢坂関を越えて京都や大阪へ運ばれたのです。
第二の理由は、京都・畿内との政治的連続性です。明治政府にとって、旧幕府直轄地(天領)や代官所が置かれ、治安維持と物資輸送の中継地として機能していた大津は、滋賀エリア全体を統治する上で最もインフラと人口が集積した要衝でした。物理的な中心地よりも、経済と情報が最も早く行き交う場所に拠点を置くことが統治上の最善策でした。