1824年8月25日、パリのサロンに『キオス島の虐殺』が展示された瞬間、批評家や鑑賞者の間には凄まじい衝撃波が走りました。当時のサロンは、ナポレオン時代の栄光や古代ギリシャ・ローマの調和美を理想とする新古典主義が支配していました。その聖域に、生々しい流血と救いのない敗北を叩きつけたのです。
ドラクロワの師であり、ナポレオンの首席宮廷画家を務めた巨匠アントワーヌ=ジャン・グロ男爵は、この絵を一目見るなり、次のような辛辣な言葉を放ちました。
「これはキオス島の虐殺ではない。絵画そのものの虐殺だ(C'est le massacre de la peinture)」
グロ男爵の批判は、輪郭をぼかし、絵の具の粗いタッチを残したロマン派的技法に向けられたものでした。しかし、新古典主義の重鎮たちが眉をひそめる一方で、血気盛んな若い世代や自由主義者たちは熱狂しました。ドラクロワ自身の『日記(Journal de Delacroix)』には、制作時の緊迫した心理状態が生々しく刻まれています。
「私は自分の絵に生命を吹き込まねばならない。あの耐え難い戦慄と、人間の生の悲惨さをそのままキャンバスに定着させることが私の宿命だ」
現在でもルーヴル美術館を訪れる世界中の鑑賞者からは、「他のどの宗教画や歴史画よりも冷酷な現実を感じる」「前景に倒れる母親と、何も知らずに胸元にすがる赤ん坊の姿から目が離せない」といった声が絶えません。SNSや美術ファラムのレビューでも、200年の時を超えて観る者の胸を衝く「反戦のリアリズム」として語り継がれています。