輝かしい栄光の陰で、エカチェリーナ2世の統治は深刻な内部矛盾を抱えていました。その最大の歪みが表面化したのが、1773年から1775年にかけてロシア全土を震撼させた「プガチョフの乱」です。
反乱を率いたのは、ドン・コサック出身のエメリヤン・プガチョフでした。彼は自らを「奇跡的に生き延びた皇帝ピョートル3世」と名乗り、過酷な重税と強制労働に喘いでいた農奴、鉱山労働者、ウラル・コサック、非ロシア系少数民族を糾合。ヴォルガ川流域からウラル山脈一帯の都市を次々と占領し、貴族や領主を処刑していきました。
反乱の原因は、エカチェリーナ自身が推し進めた「貴族への過度な譲歩と農奴制の極限的な強化」にありました。クーデターで即位した彼女は、権力基盤を維持するために貴族層の支持を必要不可欠としていました。その結果、1785年の『貴族特権付与状』によって貴族の納税免除や農奴支配権を法制化し、農奴は土地ごと売買される「事実上の奴隷」へと転落していったのです。
反乱が鎮圧され、プガチョフがモスクワで公開処刑された後、エカチェリーナは初期に抱いていた啓蒙的な自由主義改革を完全に放棄します。専制政治(ツァーリズム)の統制をさらに強化し、フランス革命(1789年)が勃発すると、国内の知識人や思想家に対する検閲と弾圧を激化させていきました。