公文所の読み方は「くもんじょ」です。平安時代中期から中世にかけて、寺社や貴族の家政機関、あるいは荘園において「公文(くもん=公文書・帳簿)」を扱い、年貢の徴収や所領管理の実務を行う部署を指す一般的な名称でした。
この既存の仕組みを、東国武家政権の中央行政組織として大規模に採用したのが源頼朝です。1184年(元暦元年)10月6日、頼朝は鎌倉の大倉御所内に公文所を開設しました。それまでの武士団は戦功と武力のみで結びついていましたが、東国を実質的に統治するためには、命令書の作成・発給、所領台帳の管理、裁判記録の保存といった「文字と書類による統制」が不可欠となったためです。
公文所のトップである「別当(べっとう)」には、京で朝廷の実務を担っていた中原氏出身の大江広元(中原広元)が抜擢されました。広元をはじめとする京都の下級貴族(文官貴族)が鎌倉へ下向したことにより、幕府は法制・文書行政の専門知識を獲得し、地方の一軍事政権から全国規模の統治組織へと飛躍する礎を築きました。