秋山真之の生涯は、激動の明治日本が近代国家へと脱皮する過程そのものでした。1868年(慶応4年/明治元年)、伊予松山藩(現在の愛媛県松山市)の貧しい下級武士・秋山久敬の五男として誕生。幼名は「淳五郎」と呼ばれ、腕白ながら抜群の記憶力と集中力を誇っていました。
上京して共立学校や大学予備門で学んだ後、兄・好古の助言や家計への配慮から海軍兵学校(17期)へ進学。首席で卒業した真之は、日清戦争での実戦経験を経てアメリカへ留学します。そこで海軍戦略の大家アルフレッド・マハンの講義を聴講し、米西戦争を観戦武官として実地見学した経験が、のちの独自の海軍戦術論を確立する決定的な礎となりました。
日本海海戦において、真之が構築した「七段構えの陣」は、洋上での待ち伏せから主力艦隊による砲撃戦、夜間の水雷攻撃、翌日の追撃に至るまでを何重にも張り巡らせた完璧な包囲網でした。連合艦隊司令長官・東郷平八郎の不動の決断力と、真之の緻密極まる戦術計算が合致したことで、世界の海戦史上類を見ないパーフェクトゲームが達成されたのです。