欧米において本作は長年「ミルクメイド(The Milkmaid)」という通称で親しまれてきましたが、美術史の厳密な定義において彼女は農場で搾乳を行う女性ではなく、裕福な都市住宅に仕える「台所担当の召使い(キッチンメイド)」です。たくましい腕と慎ましやかな身なり、仕事着の袖まくりは、当時の家事労働者の実直な日常をリアルに物語っています。
彼女が一体何を作っているのかという疑問に対し、近年のオランダ生活文化史研究は明確な答えを提示しています。彼女の手元にあるのは、日数が経って固くなったパンと陶器の壺に入った牛乳です。これは17世紀オランダの家庭で広く親しまれていた「ブレッドプディング(パンプディング)」の下準備を行っている光景です。
無駄を出さずに余った食材を活かす家庭的な知恵と、計量を誤らないよう細心の注意を払って牛乳を注ぎ落とす女性の集中力。フェルメールは劇的な神話や歴史的事件ではなく、市井の名もなき女性がこなす「日常の尊い労働」を、宗教画のような厳かな崇高さをもってキャンバスに定着させました。