かつて教科書で「四大工業地帯」の筆頭格として教えられた北九州工業地帯が、1980年代後半から1990年代にかけて教科書から「四大」の肩書きを剥奪され、三大工業地帯へと再定義された歴史は、地域経済史における最も教訓的な事例の一つです。
北九州工業地帯の衰退理由として決定打となったのは、1960年代に急速に進んだ「エネルギー革命」でした。筑豊炭田などの豊富な石炭資源と中国大陸からの鉄鉱石輸入を背景に、1901年の官営八幡製鉄所開設以来、日本の重工業を牽引してきた北九州ですが、主たる燃料が石炭から中東の安価な石油へとシフトしたことで、炭田に近接しているという絶対的な地理的優位性を一瞬にして失いました。
さらに追い打ちをかけたのが、製鉄設備の巨大化と臨海移転です。八幡地区の設備老朽化に伴い、新日本製鐵(現・日本製鉄)は君津(千葉県)や大分などの広大な最新鋭臨海製鉄所へ生産拠点を集約・分散させました。かつて「製鉄所の煙は繁栄の証」と誇られた北九州の空と海は深刻な公害に苦しみ、1960年代には「死の海」と呼ばれた洞海湾の浄化に多大なリソースを割くことを余儀なくされたのです。
当時の現場を経験した地元関係者は、業界誌の手記において「煙突の煙が消えていく光景は、一つの文明が終わるような恐怖だった。だが、公害を克服しなければ街自体の生存がなかった」と振り返っています。過酷な構造不況と公害問題を乗り越えた北九州市は、1990年代後半から廃棄物ゼロを目指す「北九州エコタウン事業」を展開。安川電機に代表される産業用ロボットや自動車関連工場の誘致を進め、単なる過去の遺産ではなく、サーキュラーエコノミー(循環型経済)の実践都市として世界的な再評価を獲得するに至っています。