蜜月だった2人の関係に致命的な亀裂が生じた背景には、組織運営をめぐる哲学の乖離と、感情的な主導権争いが存在していました。バブル崩壊後の1992年に施行された「暴力団対策法(暴対法)」は、山口組に重大な路線選択を迫ることになります。
宅見勝は、これ以上の警察当局との全面対決は組織の壊滅を招くと冷徹に判断し、「警察との摩擦を極力回避し、合議制による近代的な組織運営」を志向しました。全国の直系組長に対する統制を強め、無謀な抗争を禁じ、上納金制度の再編によって本部機能を集権化させようと動いたのです。事実上、組の実務と人事はすべて若頭である宅見の手中に収まり、直参組長たちの間でも「渡辺組長より宅見若頭の顔色を窺う」空気が定着していきました。
一方、親分としての絶対的な権威を重んじる渡辺芳則にとって、自らの出身母体である山健組を軽視し、金と論理で組織を牛耳る宅見の振る舞いは看過できないものでした。「看板は渡辺、実権は宅見」と揶揄される構造に、渡辺は強い危機感と屈辱感を募らせていきます。
この対立構造を決定づけたのが、山健組出身で渡辺の側近として急速に台頭していた中野会会長・中野太郎の存在です。武闘派として鳴らし、渡辺への絶対的な忠誠を誓う中野は、宅見の独断専行に公然と反発しました。渡辺が中野を重用し、宅見に対する牽制勢力として扱ったことで、山口組内部には「渡辺・中野ライン」と「宅見派」という、決して交わらない危険な対立軸が形成されてしまったのです。