乱歩の封印傑作『芋虫』はなぜ発禁に?愛憎の結末とトラウマの深淵

乱歩の封印傑作『芋虫』はなぜ発禁に?愛憎の結末とトラウマの深淵

乱歩の封印傑作『芋虫』はなぜ発禁に?愛憎の結末とトラウマの深淵について押さえておきたい ポイントを分かりやすく解説いたします。

『芋虫』はもともと、1929年(昭和4年)に博文館の発行する名門探偵小説誌『新青年』の新年増刊号に掲載されました。初出時のタイトルは『悪夢』であり、当時の読書界を熱狂させていたエログロナンセンス文学の極北として歓迎された経緯があります。しかし、日中戦争の勃発から国家総動員体制へと突入する1930年代後半、内務省の検閲当局はこの作品を危険視し、1939年(昭和14年)に全面的な発禁処分(発売頒布禁止処分)を下しました。

項目詳細・歴史的経緯当時の検閲基準・社会状況現代の評価と文芸的意義初出・発表時期1929年(昭和4年)『新青年』新年増刊号(原題『悪夢』)大正デモクラシーの余韻とエログロナンセンスの爛熟期乱歩の心理サスペンスおよび怪奇文学の頂点とされる弾圧・発禁処分1939年(昭和14年)内務省警保局により全集等から削除・発禁国家総動員法(1938年)施行後の戦時統制・言論弾圧の強化反体制文学として意図せず国家権力を脅かした証左戦後の復権1946年(昭和21年)以降、GHQ統治下で伏字が解除され完全復刊民主化政策に伴う出版の自由の回復、カストリ雑誌の流行岩波文庫、角川文庫、創元推理文庫などで定番名作化映像化・派生作品2010年 若松孝二監督『キャタピラー』(寺島しのぶ主演)第60回ベルリン国際映画祭で最優秀女優賞(銀熊賞)受賞乱歩の猟奇性を明確な反戦・反軍国主義映画へと再解釈

国家がこの作品を抹殺しようとした背景には、主に3つの決定的理由が存在していました。

第1に、「軍神の神聖性の冒涜」です。日清・日露戦争以降、帝国陸海軍において戦傷者は「名誉の負傷」を遂げた英雄であり、国家の忠烈な臣民として崇拝されるべき対象でした。しかし『芋虫』で描かれた須永中尉は、崇高な軍人精神のかけらもなく、本能的な食欲と性欲を貪る無様な肉の塊として描かれています。この身も蓋もない描写は、軍部が国民に強要していた皇軍の神話を正面から打ち砕くものでした。

第2に、「銃後の家庭倫理の転覆」です。戦時下において、兵士の妻には貞淑さと銃後を守る自己犠牲の美徳が求められました。ところが時子は、夫の栄誉を誇るどころか、その無力さを利用して倒錯したサディズムに耽溺し、最終的には夫の目を潰すという家庭内テロリズムを完遂します。国家がプロパガンダとして掲げる家庭像の真逆を行く醜態は、風教を乱す危険思想と見なされました。

第3に、「厭戦感情・反戦思想の誘発」です。凄惨を極める夫の肉体描写と、そこから生じる救いようのない絶望劇は、出征を控えた兵士やその家族に対して「戦争に行けばこのような生ける屍になるかもしれない」という根源的な恐怖を植え付けます。戦意高揚を至上命題としていた内務省にとって、本作の持つグロテスクなリアリズムは許容しがたい猛毒だったのです。

中村 さくら
著者

中村 さくら

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。