蔦重の歩みは順風満帆ではありませんでした。最大の試練となったのが、老中・松平定信が主導した「寛政の改革」です。財政再建と風紀是正を掲げた定信は、娯楽や風刺を厳しく敵視し、町人の文化活動に強烈なブレーキをかけました。
1790年(寛政2年)、幕府は出版物への検閲制度を大幅に強化。新作の出版には行司の改印(承認)が必須となり、風俗を乱す本や幕府批判を匂わせる記述は徹底的に取り締まられました。そして翌1791年、見せしめとして標的にされたのが、出版界の寵児・蔦屋重三郎でした。山東京伝が書いた洒落本3作品が摘発され、作者の京伝は手鎖50日(両手を鎖で縛られたまま自宅謹慎)、版元の蔦重には「身代半減(財産の半分を没収)」という壊滅的な過料処分が下されたのです。
築き上げた資産の半分を国に奪われ、出版規制で主力商品だった風刺本も作れない――常人であれば廃業に追い込まれる絶望的な状況下で、蔦重は決して筆を折りませんでした。彼は「言葉(文学)が縛られたなら、ビジュアル(絵画)で勝負する」と舵を切り、狂歌絵本や浮世絵版画のクオリティを極限まで高める戦略へとシフトします。前述した歌麿の全盛期や写楽の電撃デビューは、まさにこの財産半減という逆境の焼け跡から生まれた執念の果実でした。