開戦当初、フランス国内では「数週間でベルリンへ進撃できる」という楽観論が支配的でした。しかし、前線に展開した両軍の組織力と準備態勢には雲泥の差が存在していました。参謀総長ヘルムート・フォン・モルトケ率いるプロイセン軍は、緻密に敷設された鉄道網をフル活用して約46万人を超える大兵力を迅速に国境地帯へ集結させます。バイエルンやバーデンなどの南ドイツ諸邦も協定に基づき合流し、「全ドイツ対フランス」の総力戦体制が電撃的に構築されました。
1870年8月4日のヴァイセンブルクの戦いを皮切りに、8月6日のヴルトの戦い(両軍計10万人以上が激突した最初の大規模野戦)など、国境沿いの戦闘でプロイセン軍は連勝を重ねます。フランス軍はバゼーヌ元帥率いるライン軍がメス要塞に封じ込められ、マクマオン元帥と病身のナポレオン3世が率いるシャロン軍は救援に向かうものの、北方のベルギー国境近くにあるスダン(セダン)の要塞盆地へ追い詰められました。
1870年9月1日、運命の「スダンの戦い」の火ぶたが切られます。プロイセン軍はスダンを取り囲む高台に布陣し、クルップ社製の後装施条鋼鉄砲を配備。すり鉢の底のような地形に密集するフランス軍に対し、射程外からの容赦ない十字砲火を浴びせました。フランス騎兵隊による命がけの突撃も猛烈な砲撃の前に粉砕され、脱出路は完全に遮断されました。
持病の膀胱結石による激痛に苛まれながら馬上で指揮を執っていたナポレオン3世は、これ以上の兵士の犠牲は無意味であると悟り、要塞に白旗を掲げるよう命令します。翌9月2日、フランス軍将兵約8万3000人とともにナポレオン3世自らが捕虜となり、プロイセン軍に全面降伏しました。皇帝の降伏という衝撃の一報が届いたパリでは即座に民衆が蜂起し、第二帝政は呆気なく終焉を迎え、国防政府による「第三共和政」の樹立が宣言されました。