本作の誕生には、昭和演歌界を代表する二大巨匠の執念と緻密な計算がありました。作詞を手掛けた吉岡治は、日常の何気ない所作や会話の端々に人間の暗部と情念を潜り込ませる名手。『天城越え』などでも見られる吉岡特有の「情景の視覚化」が、『さざんかの宿』でも遺憾なく発揮されています。
一方、作曲の市川昭介は、大川栄策の最大の武器である「澄んだ高音の伸び」と「哀愁を帯びた裏声」を最大限に引き出すメロディラインを構築しました。一般的な短調(マイナーコード)の演歌でありながら、サビに向かって感情が一気に溢れ出るコード進行(Am-Dm-E7を基軸とした王道の日本的哀愁和音)を採用し、聴く者の涙腺を刺激する構成を完成させたのです。
大川栄策はデビュー以来、恩師・古賀政男の正統後継者として端正な「古賀メロディ」を歌い続けていましたが、本作ではそのクラシックな技術をベースにしつつ、市川メロディの持つ泥臭い情念を見事に融合させ、歌手としての新境地を切り拓きました。