平家落人伝説の頂点に位置するのが、8歳で壇ノ浦の波間に消えたとされる「安徳天皇の生存説」です。驚くべきことに、宮内庁が指定・管理する安徳天皇の御陵や参考地墓は山口県下関市(阿弥陀寺陵)だけでなく、全国に20カ所以上も存在します。
徳島県祖谷の「栗枝渡八幡神社」には、安徳天皇が潜幸し、この地で崩御した後に火葬されたとする陵墓が存在します。また、鳥取県三朝町、高知県越知町(横倉山)、さらには鹿児島県の薩摩硫黄島(三島村)に至っては、天皇が逃れ住んで長寿を全うし、その子孫が「長浜家」として皇室の菊花紋を保持し続けているという詳細な伝承記録が存在します。
歴史学における実証的見解では、入水した安徳天皇が生き延びた確証はありません。しかし、なぜこれほどまでに生存説が日本中に定着したのでしょうか。その背景には、三種の神器のうち「草薙剣(天叢雲剣)」が壇ノ浦で海中に没し、回収できなかったという歴史的事実があります。
正統な皇位継承の証を失った鎌倉幕府や朝廷に対し、地方の反幕勢力や平家残党は「天皇は生きている、草薙剣も海中に沈んでいない」と主張することで、自らの抵抗の正当性を担保しようとしました。すなわち、安徳天皇生存説は単なる民衆の判官贔屓(ほうがんびいき)だけでなく、中世の政治闘争における強力なシンボルとして再生産され続けた結果なのです。