寺伝および『扶桑略記』などの古記録によると、法住寺の歴史と由緒は平安中期の永延2年(988年)、太政大臣・藤原為光が妻と愛娘(花山天皇の女御であった藤原忯子)の菩提を弔うために創建したことに始まります。創建当初から壮麗な伽藍を誇っていましたが、この地が日本史の表舞台として激しく揺れ動くのは、平安末期の後白河上皇(のちに法皇)の時代です。
保元の乱・平治の乱を経て院政の頂点に立った後白河法皇は、この地を新たな政治・文化の拠点として選び、広大な敷地に「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」を造営しました。法住寺殿は単なる住まいにとどまらず、政治を司る政庁や多数の仏堂が立ち並ぶ巨大都市空間であり、千体千手観音を祀る「蓮華王院(現在の三十三間堂)」もその一郭として建立されたものです。
しかし、寿永2年(1183年)、平家追討のために上洛した木曾義仲(源義仲)と法皇が政治的対立を深めた結果、義仲軍数百騎が御所を取り囲んで火を放つという前代未聞のクーデター「法住寺合戦」が勃発します。御所は紅蓮の炎に包まれ、多くの公家や警護の武士が命を落とす惨劇となりました。法皇自身も捕らえられて幽閉の憂き目を味わうことになります。法住寺は、貴族社会から武家社会へと覇権が激変する日本史上最大の転換点を見つめ続けた現場そのものなのです。