事の発端は、秦を倒す反乱軍の盟主・楚の懐王が下した「先に関中(函谷関の西側、秦の首都・咸陽一帯)に入った者を王とする」という約定でした。秦の圧政に苦しむ民衆の反発が沸点に達する中、抜け目なく軍を進めた劉邦が紀元前207年、項羽よりも先に関中に入城を果たします。劉邦は略奪を固く禁じ、秦の過酷な法律を廃止して「人を殺した者は死刑、人を傷つけた者と盗みをした者は処罰する」という「約法三章」を定めて民衆の支持を瞬く間に掌握しました。
これに激怒したのが、鉅鹿(きょろく)の戦いで秦軍主力を壊滅させ、40万の大軍を率いて遅れてやってきた項羽です。自負心の強い項羽にとって、格下と見なしていた劉邦に出し抜かれた屈辱は耐え難いものでした。さらに劉邦陣営の裏切り者・曹無傷(そうむしょう)から「劉邦は関中の王となり、秦の財宝を独占しようとしている」との密告が入ったことで、項羽は翌朝の総攻撃を決断します。この一触即発の危機を知った項羽の叔父・項伯が、親交のあった劉邦の軍師・張良を救おうと陣を訪れたことから、事態は夜を徹した政治工作へと転じました。
張良の手引きによって劉邦は項伯と面会し、「秦の財宝には手を付けず、項羽将軍のお越しを心待ちにしていた」と釈明。劉邦の平身低頭な弁明を信じた項伯の口添えにより、翌朝、劉邦がわずか100余騎の側近のみを連れて項羽の陣屋(鴻門)へ謝罪に赴くことで開かれたのが、運命の酒宴でした。ここで整理すべき史記 鴻門之会 登場人物の相関関係は以下の通りです。
項羽陣営は、絶対的君主である項羽、冷徹な戦略家である老参謀・范増、劉邦に内通する形となった叔父の項伯、そして暗殺の実行役を命じられた従兄弟の項荘。対する劉邦陣営は、柔軟な実利主義者である劉邦(沛公)、天才的知略で場を操る軍師・張良、そして圧倒的な武力と豪胆さで主君を命がけで守る側近・樊噲。この7名が、密室とも言える宴席で極限の腹を探り合いました。