人望厚き総長であった山南敬介は、なぜ死罪を意味する「脱走」という強硬手段に出たのでしょうか。歴史愛好家の間で長年議論が交わされてきた山南敬介の切腹理由と脱走原因には、単なる個人の感情論にとどまらない、新選組の組織変革に伴う複数の決定的要因が存在します。
最大の引き金となったのは、元治元年末から元治2年初頭にかけて強行された「西本願寺への屯所移転」を巡る対立です。隊士の急増に伴い壬生の屯所が手狭になったことから、近藤と土方は長州藩寄りと目されていた西本願寺への移転を断行しようとしました。これに対し山南は、幕府や朝廷への政治的影響力行使という口実のもと、寺院の尊厳を踏みにじり威圧的な武力誇示を行う方針に猛烈に反対しました。これが近藤勇との決定的な対立へと発展します。
さらに組織のパワーバランスの変化も見逃せません。元治元年10月、近藤の招聘によって水戸学の流れを汲む学客・伊東甲子太郎が入隊し、参謀に就任します。これにより、これまで隊内唯一の知術顧問・政策担当であった山南敬介の存在意義は急速に形骸化していきました。武力集団としての戦闘力強化に邁進する近藤・土方のリアリズムと、道義や武士道を重んじる山南の理念主義の溝は、もはや埋めがたい段階に達していたのです。
また、同年の池田屋事件において山南が出動しながらも重傷を負い、以後は剣を振るえなくなったという説(刀折れ傷病説)も有力視されています。武士として第一線の戦闘指揮を執れなくなった焦燥感と、軍事集団化していく隊内で居場所を失っていく孤立感が、山南を精神的に追い詰めていったと考えられます。
重要なのは、山南の「脱走」が保身のための逃亡ではなかった点です。山南は京都を離れ、わずか大津(滋賀県)の宿に滞在しているところを追っ手に捕捉されています。本気で逃亡を図るならば変装して追随を断つべきところを、紋付袴の正装のまま移動し、あっさりと同行に応じた事実から、これは逃避ではなく「近藤と土方の専横に対する命を賭けた諌死・抗議行動」であったと解釈するのが歴史学的な定説となっています。