1998年11月場所で現役を引退した久島海は、年寄・田子ノ浦を襲名し、2000年2月に出羽海部屋から分家独立して自らの部屋を興しました。名門部屋の看板に頼らず、ゼロから弟子をスカウトして育成する作業は困難を極めましたが、親方は情熱を注ぎ続けました。
その最大の結実が、ブルガリア出身の巨漢力士・碧山(あおいやま)の発掘と育成です。久島海親方は碧山の素質を見抜き、温かい指導で日本語や相撲の基本を叩き込みました。碧山が幕内に定着し、これから師弟で上位を目指そうとしていた矢先の急逝でした。
部屋持ち親方が後継者を指名できないまま急逝した場合、相撲協会の規定により相撲部屋は存続できなくなります。2012年2月の親方の急死を受け、田子ノ浦部屋の弟子たちの現在はどうなったのか。碧山をはじめとする所属力士や床山らは、出羽海一門の春日野部屋および出羽海部屋へと分散移籍することになりました。
春日野部屋へ移籍した碧山は、亡き師匠への恩義を胸に奮起し、その後関脇まで昇進。幕内上位で長年にわたり活躍を続けました。碧山は後のインタビューで、「田子ノ浦親方が日本での相撲の基礎を一から教えてくれた。親方の指導がなければ今の自分は存在しない」と涙ながらに語っています。親方が注いだ情熱の種は、弟子を通じて大相撲の歴史に確固たる花を咲かせました。
なお、大相撲ファンの間で混同されがちな点として、現在の「田子ノ浦部屋」との関係が挙げられます。現在、元大関・稀勢の里(現・二所ノ関親方)らを輩出した田子ノ浦部屋は、元前頭・隆の鶴が名跡を継承して再興した部屋であり、久島海が創設した旧田子ノ浦部屋とは系譜が異なります。久島海が命を削って育てた血脈は、春日野部屋の力士たちの中に静かに息づいています。
訃報に際して寄せられた元久島海への追悼の反応は、角界の垣根を越えたものでした。日大相撲部の同期や後輩、出羽海部屋の仲間、さらには土俵を共にしたライバル力士たちから、「あまりにも早すぎる」「あんなに心優しく、相撲に真摯だった男がなぜ」と、早世を惜しむ声が絶えませんでした。