1918年米騒動の歴史的背景を紐解く上で、起点となった現場の切迫感は極めて生々しいものです。1918年7月23日、富山県下新川郡魚津町(現・魚津市)の海岸に集まった数十名の漁師の妻たちが、北海道へ米を運び出そうとしていた荷積み船「伊吹丸」を取り囲みました。これが富山県魚津市と米騒動の始まりです。
当時の越中海岸は出稼ぎ漁民が多く、残された女性たちが重労働で家計を支えていましたが、地元で獲れた米が県外へ高値で転売され、自分たちの口に入る米の価格が一升(約1.5キロ)あたり大正初期の12〜13銭から一挙に30銭以上へと跳ね上がっていました。地元の主婦たちが発した「米を県外へ持ち出さず、安く売り戻してほしい」という切実な哀願は、警官隊の介入と強硬な拒絶によって一揆へと変貌し、新聞報道を通じて瞬く間に全国へ波及しました。
この民衆蜂起を全国規模の暴動へと激化させた最大の触媒が、日本政府によるシベリア出兵と米価高騰の連鎖です。ロシア革命への干渉を意図した大規模派兵の決定が漏れ伝わると、軍用米の大量買い付けを見越した米穀商や富裕層による投機的な買い占めが横行。米相場は天井知らずの暴騰を続け、1石(約150キロ)あたり20円前後だった相場が、わずか数か月で50円を突破する異常事態となりました。
その象徴として標的にされたのが、神戸に本拠を置く巨大商社でした。鈴木商店による米の買い占め疑惑が過熱報道されると、民衆の怒りは頂点に達し、1918年8月11日、神戸の鈴木商店本店は数万人の暴徒によって焼き討ちされる事態に発展しました。後年の調査報道や歴史研究資料によると、鈴木商店が扱っていた米の多くは外米の輸入や国際取引であり、国内米の組織的買い占めを主導していたわけではありませんでした。しかし、急激な格差拡大と食糧難に苦しむ大衆の「悪徳商人が米を隠しているに違いない」という疑心暗鬼が、巨大資本をスケープゴートに仕立て上げたのです。この未曾有の混乱は軍隊の出動にまで至り、寺内正毅内閣を総辞職に追い込む政治的転換点となりました。