徳永英明『レイニーブルー』切なすぎる誕生秘話と現在の歌声を徹底解剖

徳永英明『レイニーブルー』切なすぎる誕生秘話と現在の歌声を徹底解剖

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いまやJ-POP史上の金字塔と称される『レイニーブルー』ですが、その誕生の背景には、華やかなスポットライトとは程遠い、青年の焦燥と泥臭い挫折の連続がありました。福岡県で生まれ兵庫県伊丹市で育った徳永英明は、ミュージシャンになる夢を叶えるために上京。しかし、現実はあまりにも厳しく、新宿のレコード店や飲食店でアルバイトを掛け持ちしながら食いつなぐ極貧の日々を送っていました。

大きな転機となったのは、東京・自由が丘の喫茶店でアルバイトをしていた時期でした。そこで皿洗いや接客に追われながらも音楽への情熱を燃やし続けていた徳永英明は、同じく喫茶店の常連であり、後に作詞家としてタッグを組むことになる大木誠氏と運命的な出会いを果たします。自著や当時の特番インタビューにおいて本人が述懐しているように、まだ何者でもなかった青年二人が、アパートの小さな部屋でギターを爪弾きながら「自分たちの信じる本物の音楽を作ろう」と語り合い、生み落とされたデモテープの1曲こそが『レイニーブルー』の原型でした。

しかし、名曲の完成とメジャーデビューへの道は決して直結していませんでした。1980年代前半、徳永英明は「マリンブルー音楽祭」をはじめとする名だたる音楽コンテストやレコード会社のオーディションに挑み続けますが、ことごとく落選の憂き目に遭います。当時の音楽業界はバンドブームの前夜であり、男性ソロシンガーに対しては「骨太なロック」や「典型的な昭和歌謡」のスタイルが求められる傾向が強く、彼の持つ中性的で哀愁を帯びたハスキーボイスは、既存のステレオタイプな枠組みになかなか当てはまらなかったのです。

風向きが変わったのは、TBS系列の音楽コンテスト番組への挑戦やラジオ関係者の間で出回ったデモ音源でした。「このハスキーでありながらどこまでも伸びる切ない声は、一度聴いたら耳から離れない」とラジオ局のディレクターやプロデューサー陣の心を捉え、1985年の「第2回マリンブルー音楽祭」での特別賞受賞を足がかりに、ついに1986年1月21日、ラジオハウス(当時の所属レーベルはアポロン音楽工業)からのメジャーデビューが決定します。決して順風満帆なエリートコースではなく、孤独な夜に流した涙と悔しさが、あの切なすぎる旋律と歌声のリアリティを形作っていたのです。

伊藤 翔太
著者

伊藤 翔太

マネー知識やキャリア形成に役立つノウハウを、初心者にも分かりやすく解説するのが得意です。