関ヶ原の戦いで西軍の副大将格として1万7,000の大軍を率いた宇喜多秀家は、本戦の崩壊に伴い戦場から離脱。伊吹山中へと逃亡し、そこから数年にわたる逃亡生活へと身を投じました。敗戦直後、多くの西軍首脳が六条河原で露と消えたにもかかわらず、なぜ秀家だけが命を長らえ、八丈島への配流となったのでしょうか。
その背景には、関ヶ原の戦い 敗戦後の逃亡劇における島津家との深い結びつきがあります。伊吹山を脱した秀家は、京都・大坂の潜伏を経て、かつて朝鮮出兵で昵懇の間柄であった薩摩の島津義弘を頼りました。島津領内に匿われた秀家でしたが、やがて徳川の探索網が狭まり、慶長8年(1603年)、島津忠恒(家久)の手により幕府へ出頭することになります。このとき、本来であれば即座に斬首されてもおかしくない立場でした。
しかし、ここで歴史を決定づけたのが宇喜多秀家 豪姫 経緯です。秀家の正室である豪姫は、前田利家の四女であり、豊臣秀吉の養女として溺愛された人物でした。豪姫の実兄である加賀藩主・前田利長、そして母である芳春院(まつ)は、徳川家康に対して懸命な助命嘆願を展開。さらに島津家も秀家の助命を強く求めたため、家康としても前田・島津という外様二大巨頭の懇請を無視することは政治的に得策ではないと判断せざるを得ませんでした。
その結果、秀家は駿河の久能山での幽閉を経て、慶長11年(1606年)、2人の息子(秀高・秀継)や家臣らとともに八丈島へ送られることとなりました。これが、江戸幕府による公式な八丈島 流人第一号とされる配流の経緯です。