北山文化の寵児として栄華を極めた世阿弥でしたが、その晩年は過酷を極める苦難の連続でした。義満が世を去り、4代将軍・足利義持、そして「万人恐怖」と恐れられた6代将軍・足利義教(よしのり)の時代になると、世阿弥を取り巻く環境は一変します。
世阿弥佐渡配流の背景には、将軍家の嗜好の変化と、熾烈な後継者争いが複雑に絡み合っていました。
- 将軍・足利義教の忌避と好みの変化:義教は世阿弥の甥である「音阿弥(おんあみ)」の芸風を熱烈に贔屓し、世阿弥とその実子たちを次第に冷遇していった。
- 観世座の正統伝承を巡る対立:世阿弥は秘伝書や芸の正統を甥の音阿弥ではなく、実子の観世元雅(もとまさ)へ継承させようとしたため、将軍の意向に背く形となった。
- 相次ぐ家族の悲劇:後継者として嘱望され、卓越した才能を持っていた長男・元雅が伊勢で30代前半の若さで客死(暗殺説も存在)。次男の元能(もとよし)も出家し、世阿弥は孤立無援に追い込まれる。
- 永享6年(1434年)、72歳での佐渡配流:幕府から明確な罪状を公表されないまま、老境に達した世阿弥は極寒の佐渡島へと流刑に処された。
権力者の気まぐれによってすべてを奪われながらも、世阿弥の芸術家としての精神は決して屈しませんでした。佐渡の地でも『金島書(きんとうしょ)』などを執筆し、配流先での雨乞いの舞を通じて現地の人々と交流を深めた記録が残されています。晩年に京都へ戻ることが許されたとも伝えられますが、その終焉の詳細は今なお深い神秘のヴェールに包まれています。