崇徳天皇の怨霊はなぜ日本最強なのか?血書の呪いと祟りの全真相

崇徳天皇の怨霊はなぜ日本最強なのか?血書の呪いと祟りの全真相

崇徳天皇の怨霊はなぜ日本最強なのか?血書の呪いと祟りの全真相とはどのようなものなのか? 主要なファクトを簡潔に解説します。

崇徳天皇が怨霊として恐れられる最大の要因は、自ら「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民をして皇となさん」と誓い、国家体制そのものを呪詛したという伝承にあります。なぜ、至高の位に君臨した人物がそこまでの怨念を抱くに至ったのか。その発端は、肉親同士の凄惨な骨肉の争いにありました。

実父である鳥羽上皇から「叔父子(白河法皇と妻・待賢門院の不義の子)」と忌み嫌われ、冷遇され続けた崇徳天皇は、わずか23歳で義弟の近衛天皇へ譲位を強要されます。さらに近衛天皇の崩御後、本命と目された崇徳上皇の皇子・重仁親王ではなく、同母弟の後白河天皇が即位したことで、皇統継承から完全に排除される形となりました。

1156年に勃発した「保元の乱」は、この皇室内部の亀裂と摂関家の権力争いが武士団を巻き込んで爆発した合戦です。崇徳上皇は源為朝らを擁して挙兵するも、後白河天皇・平清盛・源義朝率いる夜襲軍に敗北。平安時代としては約350年ぶりとなる死罪の復活、そして崇徳上皇本人の讃岐国(現在の香川県)への配流という過酷な処分が下されました。

讃岐での配流生活において、崇徳上皇は極楽往生を願い、3年の歳月をかけて「五部大乗経(大乗経典)」を血で写経しました。この写経を「京の寺に納めてほしい」と朝廷に差し出したものの、後白河院は「呪詛が込められている」と疑い、送り返してしまいます。この屈辱と絶望が決定打となり、上皇は髪も爪も切らず、舌を噛み切って自らの血で「大魔縁」の誓文を書き記したと『保元物語』は伝えています。

山下 哲也
著者

山下 哲也

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。