「なぜ、現代の高度な3Dスキャンや彫刻技術を使って、頭部や腕を完全に元通りに復元しないのか」という疑問は後を絶ちません。実は、この問いには近現代の文化財修復における明確な哲学と学術的根拠が存在します。
驚くべきことに、ニケの右手は完全に消滅したわけではありません。発見から約90年が経過した1950年、アメリカの考古学調査隊がサモトラケ島の発掘現場周辺を再調査した際、ニケの右手の平と指の骨格を成す2つの破片を発見しました。さらにその後、ウィーンの美術史美術館に保管されていた未分類のコレクションの中から、シャンポワゾが持ち帰っていた別の指の破片が一致することが判明したのです。
これらの発見から、女神の右腕は前進しながら斜め上方へと高く掲げられ、勝利を告げる手振りをしていたか、あるいは勝利の帯(リボン)を掲げていた可能性が高いことが科学的に証明されました。現在、この右手の断片はルーヴル美術館のニケ像のすぐ脇にある専用ガラスケースに大切に展示されています。
それにもかかわらず、ルーヴル美術館が右腕を本体に接合しない理由は以下の3点に集約されます。
- 考古学的誠実性(ベネチア憲章の理念):確実な同定ができない部位を想像や推測で補うことは、文化財の真実性を損なう行為とみなされるため。
- 構造的負荷の回避:残存する右肩の接合部は長年の風化で脆弱化しており、重い大理石や補強器具を取り付けると本体の胴体を破損させる危険があるため。
- 確立された不完全の美学:19世紀末以降、世界中の人々が「頭と腕がないシルエット」に芸術的完成度を見出しており、人為的な補完は鑑賞体験を毀損するという合意が形成されているため。
2013年9月から2014年7月にかけて実施された総費用約400万ユーロ(約5億円超)の大規模修復プロジェクトでも、方針は徹底されました。世界中から集まった約400万ユーロのうち100万ユーロは一般市民約6,700人の寄付(クラウドファンディング)で賄われました。最新のレーザー洗浄技術によって長年蓄積した煤煙や古いワックスが除去され、パロス大理石本来の淡く輝く乳白色が蘇りましたが、欠落した頭部や腕を新造するような過度な介入は一切行われていません。