喜多川歌麿という不世出の天才を語る上で、名プロデューサー蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)の存在を切り離すことはできません。吉原の入口に書店「耕書堂」を構えていた蔦重は、狩野派の町絵師・鳥山石燕の門下でくすぶっていた歌麿の非凡なデッサン力を見抜き、自宅の長屋に住まわせて徹底的に支援しました。
当初は『狂歌百物語』などの緻密な狂歌絵本や動植物を描いた図譜を手がけさせて腕を磨かせ、機が熟した寛政初期に満を持して打ち出したのが、先述の「美人大首絵」でした。蔦重の優れたマーケティング戦略と歌麿の神業のような描線が共鳴し、二人は江戸の出版界で飛ぶ鳥を落とす勢いのヒットメーカーとなったのです。
しかし、二人の快進撃には権力の冷酷な影が常に付きまとっていました。松平定信が進める「寛政の改革」による出版統制の強化です。贅沢な雲母摺は禁止され、町娘の名前を絵に入れることすら風紀を乱すとして禁じられました。さらに寛政9年(1797年)、精神的・ビジネス的支柱であった蔦屋重三郎が48歳の若さで病没。歌麿は最大の理解者を失い、孤立無援の戦いを強いられることになります。
決定的な悲劇が訪れたのは文化元年(1804年)のことでした。豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした作品『太閤五妻洛東遊観之図(たいこうごさいらくとうゆうかんのず)』を描いたことが、徳川幕府の禁忌に触れたのです。天下人・秀吉が側室たちと戯れる様子を描いたこの浮世絵は、「幕府の祖である徳川家康公や武家社会を揶揄・風刺している」と判断されました。
幕府から下された刑罰は、両手を鉄の錠前で拘束されて自由を奪われる手鎖(てぐさり)50日。肉体的な苦痛のみならず、絵筆を握ることを至上の誇りとしていた絵師にとって、両手を縛られる屈辱は精神を完膚なきまでに打ち砕くものでした。手鎖を解かれた後も歌麿の衰弱は著しく、創作意欲は急速に減退。刑の執行からわずか2年後の文化3年(1806年)、50代半ばで失意のうちにこの世を去りました。