しかし、名勝負数え唄が絶頂期を迎えていた陰で、団体内部の歪みは限界に達していた。アントニオ猪木を中心とする新日本プロレスの経営危機や現場の混乱に対し、長州は強い不信感を抱くようになる。1984年、長州は自らの意志で行動を起こし、新日本を離脱。同志とともにジャパンプロレスを立ち上げ、ライバル団体であった全日本プロレスのリングへと電撃参戦を果たした。
この動きはプロレス界全体を大きく震撼させた。これまで交わることのなかった新日本系と全日本系の流派が激突する契機となり、興行の構造そのものを根底から覆したのだ。一方で、残留を決意した藤波は、看板選手として新日本のリングを守り抜く重責を一人で背負うこととなった。戦う場が離れてもなお、二人の視線は常に互いを追い続けていた。