逮捕後の裁判は長期化を極めました。1982年の東京地裁による死刑判決、1986年の東京高裁での控訴棄却を経て、1993年2月に最高裁判所にて死刑判決が確定。かつて事実婚の関係にあり、法廷で永田の身勝手さを厳しく糾弾した坂口弘も同じく死刑が確定しました。
獄中にあった永田は、自らの心情や事件の経緯を綴った手記『十六の墓標』(1982〜1983年刊行)を発表します。この中で彼女は、凄惨なリンチに至った自己の内面、自らの弱さ、そして森恒夫に対する愛憎入り混じる感情を克明に記録しました。一部からは「責任転嫁と自己正当化に満ちている」と強い批判を浴びたものの、カルト的集団心理のメカニズムを示す一級の資料として現在も研究対象となっています。
晩年の永田は重い病魔に冒されていました。1984年に脳腫瘍(髄膜腫)と診断され、東京拘置所内で開頭手術を受けました。その後遺症による寝たきりの生活、誤嚥性肺炎の併発、再手術などを経て、2011年2月5日、東京拘置所内で脳腫瘍による多臓器不全のため65歳で病死(獄死)しました。死刑確定から執行されることなく、病によってその波乱に満ちた最期を迎えたのです。