「鎌倉幕府で一般政務や文書作成を担った中枢機関は公文所なのか、それとも政所なのか」という疑問は、歴史ファンの間でも長年議論の的となってきました。結論から述べると、その双方が正解であり、同一の組織が頼朝の朝廷内での身分上昇に伴って発展的改称を遂げたというのが史実です。
1180年(治承4年)の挙兵以降、東国の在地武士を束ねて勢力を広げた源頼朝は、軍事指揮機関である「侍所」を同年10月にいち早く設置しました。しかし、平氏を追討し東国武士団の所領を安堵するためには、武力だけでは立ち行かない現実に直面します。支配の正当性を担保し、膨大な命令書や給与台帳を発行・管理する専門部署が必要不可欠となったのです。
そこで1184年(元暦元年)10月6日、頼朝は大蔵御所内に「公文所(くもんじょ)」を開設しました。公文所とは、もともと平安時代から貴族の家政機関や大寺社、荘園現地などに置かれていた「公文(公文書)」の作成・保管・徴税事務を司る部署を指す普通名詞です。頼朝はこの枠組みを鎌倉に持ち込み、初代別当(長官)に京都の下級貴族であった大江広元を起用しました。
では、なぜこれが「政所(まんどころ)」へと改称されたのでしょうか。その引き金となったのが頼朝自身の叙位・任官です。律令制の格式において「政所」とは、三位以上の公卿、あるいは従三位相当の皇族・高官に対してのみ私的な政務・家政を執行する機関として設置が公認される特権的な名称でした。
頼朝は1185年(文治元年)に従三位に昇叙して公卿の列に加わり、さらに1190年(建久元年)の初上洛を経て権大納言および右近衛大将に任じられました。そして1191年(建久2年)1月15日、大蔵御所の建て替えと新造を契機として、公文所を正式に「政所」へと改称したのです。名目上は将軍家の家政機関でありながら、実質的には日本国全域の御家人を統制し、財政・民政の最高意志決定を下す国家最高行政庁へと昇格を遂げた瞬間でした。