「厩戸皇子」は一般に「うまやどのおうじ」、あるいは歴史的仮名遣いに即して「うまやどのみこ」と読まれます。この特徴的な名前の由来として、古くから『日本書紀』の「母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとひめのひめみこ)が宮中を巡回した際、馬小屋(厩)の戸に当たった拍子に産気づき、安産で出産した」という記述が広く知られてきました。
しかし、近年の古代語研究および地理的考証では、キリスト生誕を思わせるこの母胎説話は、後世の仏教的・聖人信仰的な飾り立てである可能性が濃厚とされています。実際には、母側の実家や宮殿の所在地であった「厩戸」という地名に由来して名付けられたという見解が、現在の古代史学会では定説となっています。
574年、用明天皇の皇子として生まれた厩戸皇子の前半生は、血で血を洗う権力闘争の真っ只中にありました。当時、朝廷内では渡来系の新興勢力で仏教受容を推進する蘇我氏と、古来の祭祀を重んじる神道派の物部氏が激しく対立。587年の「丁未の乱(ていびのらん)」において、青年期の厩戸皇子は蘇我馬子側に組して物部守屋を討伐しました。この際、四天王像を彫って戦勝を祈願し、勝利の暁に四天王寺を建立したという逸話は、彼が深く仏教に帰依していく決定的な契機として記録されています。