大久保利通暗殺の真相|紀尾井坂の変の動機と西郷の手紙・最期の全貌

大久保利通暗殺の真相|紀尾井坂の変の動機と西郷の手紙・最期の全貌

大久保利通暗殺の真相|紀尾井坂の変の動機と西郷の手紙・最期の全貌の全貌を丁寧に掘り下げてご紹介します。

1878年5月14日午前8時頃、現在の東京都千代田区紀尾井町において、明治政府の実質的最高指導者であった内務卿・大久保利通が乗った馬車が突然襲撃されました。事件の主犯は、元加賀藩士の島田一郎(当時31歳)を中心とする石川県士族5名と島根県士族1名の計6名です。

彼らは暗殺直後、自首すると同時に、あらかじめ用意していた「斬奸状」を政府各所や新聞社へ送付しました。そこには、大久保を中心とする藩閥政府を糾弾する強烈な言葉が並んでいました。

斬奸状で糾弾された大久保利通の「五罪」は以下の通りです。

  • 公議の杜絶:国会を開設せず、人民の政治参加の道を閉ざしていること
  • 政令の私議:法令をみだりに改変し、権力者の私情で政治を動かしていること
  • 国威の失墜:不平等条約の改正を進められず、外国に対して弱腰であること
  • 民力の疲弊:不要不急の大土木事業や殖産興業によって民衆に過度な重税を強いていること
  • 私権の専横:薩長藩閥の出身者だけで政府の要職を独占し、専制政治(有司専制批判)を行っていること

事件の直接的な背景には、明治維新に伴う急進的な近代化政策によって特権を奪われた士族の不満がありました。1876年の「廃刀令」や「秩禄処分(家禄の廃止)」により、武士階級は身分の象徴と経済的基盤を完全に失いました。翌1877年に起きた日本最後の内戦「西南戦争」で西郷隆盛率いる薩摩士族軍が敗北したことで、武力による反乱の道は絶たれたかに見えましたが、その鬱屈したエネルギーは標的を個別の要人暗殺へとシフトさせ、紀尾井坂の悲劇へと結実してしまったのです。

山本 拓海
著者

山本 拓海

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。