「未曾有」や「踏襲」といった頻出語句を、国家の最高権力者がなぜここまで連続して読み違えたのか。単に「学力がない」と切り捨てるだけでは、この問題の本質を見誤ります。当時の首相動静、関係者の回顧録、および医療・コミュニケーションの専門的知見を総合すると、構造的な3つの複合原因が浮かび上がってきます。
第一の理由は、加齢に伴う視力低下(老眼)と官僚原稿の仕様問題です。当時の内閣府および各省庁が作成していた総理大臣答弁用のペーパー(いわゆる「答弁要領」)は、一般的な12〜14ポイント程度の明朝体で印刷されていました。当時68歳を迎えていた麻生氏は、公の場で老眼鏡をかけることを嫌う美意識がありました。薄暗い議場の照明のなか、離れた演台から細かい文字を目で素早くスキャンする際、偏(へん)と旁(つくり)を取り違えて「破綻」を「破錠(はじょう)」と誤認した可能性が関係者から強く指摘されています。
第二の理由は、麻生氏特有の「視覚情報より聴覚情報を優先する」言語処理スタイルです。麻生氏は自著やインタビューでも語っている通り、幼少期から活字を緻密に精読するよりも、他者との激しい議論や現場での直接対話によって思考を深めるタイプでした。耳で「みぞう」と知っていても、文字として「未曾有」を見た瞬間に、漢字の構成要素である「有(ゆう)」に無意識に引っ張られてしまう。普段使い慣れていない官僚特有の硬い漢語表現を、自分の言葉に咀嚼しないまま流し読みしたことで、脳内の音声変換エラーが連続して起きたのです。
そして第三の理由は、未曾有の国難による肉体的・精神的疲労の極限状態です。2008年9月24日の首相就任直前、米国投資銀行リーマン・ブラザーズが破綻。世界同時不況の震源地となった国際金融市場の沈静化、巨額の緊急経済対策(一次補正・二次補正予算案の策定)、さらに日米欧首脳会談(ワシントンG20サミット)への緊急出席など、睡眠時間を極限まで削る過密日程が続いていました。
2009年1月の記者会見で、麻生氏は漢字間違いについて問われ、次のように答えて率直に非を認めています。
「単なる言い間違いや読み違いがあったことは事実であり、私の至らないところ。以後は気をつけてまいりたい」
言い訳を並べ立てずに陳謝したものの、すでにワイドショーやネット空間で固定化された「無教養な宰相」というレッテルを覆すことは困難を極めました。