山本音吉の生涯は、まさに想像を絶する過酷な遭難から幕を開けました。1832年(天保3年)10月、尾張国知多郡小野浦(現在の愛知県知多郡美浜町)を出航した千石船「宝順丸」は、江戸へ向けて米や陶器を運搬する途上、遠州灘沖で猛烈な暴風雨に巻き込まれました。舵と帆柱を失った船は、なすすべもなく怒濤の太平洋へと押し流されていきます。
音吉 漂流の経緯をつぶさに追うと、そこには極限状態の人命の損耗が記録されています。船内に積載されていた米と、雨水を頼りに命をつないだものの、ビタミン欠乏による壊血病が次々と船員を襲いました。音吉 宝順丸の真相を記した当時の海難記録や後年の伝聞資料によると、乗り組んでいた14名のうち、船頭をはじめとする11名が洋上で次々と病死。遺体を水葬で見送る過酷な日々が430日以上(約14ヶ月)にわたって続きました。
1834年初頭、難破船はようやく北米大陸北西部(現在の米ワシントン州フラッタリー岬付近)の海岸に漂着します。生き残ったのは、最年少の炊夫(かしき)であった14歳の音吉、久吉(当時15歳)、岩吉(当時28歳)のわずか3名のみでした。漂着直後、現地の先住民族であるマカ族に囚われ、奴隷のような労役を強いられる過酷な境遇に置かれます。しかし、彼らが持っていた積荷の陶器に刻まれた文字に気付いたハドソン湾会社の職員ジョン・マクローリンにより救出され、運命の歯車が大きく世界へと回り始めました。