織田信長亡き後の主導権を握った秀吉と、織田信雄を擁して反旗を翻した徳川家康。「小牧・長久手の戦い」において、恒興は秀吉軍の東部戦線を担う野戦司令官として決定的な役割を担わされます。当初、恒興の動きは鮮やかでした。1584年3月、徳川陣営の重要拠点であった美濃・尾張の境にある要衝・犬山城を木曽川の急流を渡って急襲し、わずか数日で奪取に成功。戦局序盤のイニシアチブを秀吉方にもたらしたのです。
しかし、戦局が小牧山に布陣する家康の膠着状態に入ると、恒興の焦慮が頭をもたげます。恒興の娘・せんを妻とし剛勇で知られた森長可とともに、膠着を打破すべく秀吉に持ちかけたのが、あまりにも有名な「三河中入り作戦」でした。家康の本拠地である三河を奇襲し、徳川軍を小牧山から釣り出して撃滅するという計画です。秀吉は総大将として甥の羽柴秀次(当時17歳)を据え、実質的な先鋒部隊として池田恒興、長男の池田元助、そして森長可ら約2万の兵を敵地深くに送り込みました。
ところがこの機動作戦は、情報網を張り巡らせていた徳川家康に完全に察知されていました。4月9日未明、白山林で休息中だった羽柴秀次率いる後続軍が水野忠重・榊原康政らの奇襲を受けて総崩れとなります。前進していた池田恒興・元助父子と森長可は逃げ場を失い、長久手の高所を押さえた家康本隊と正面衝突を余儀なくされました。
森長可が眉間を鉄砲で撃ち抜かれ即死すると、戦列は完全に崩壊。恒興の長男・元助も徳川方の安藤直次らに討ち取られ、恒興自身も敗走の途上、愛馬を失い床几に腰掛けて自重していたところを、家康配下の永井直勝(当時は長田姓)の手によって槍で突き伏せられ討死しました。死因は激しい白兵戦による全身創痍および槍による刺殺であり、享年49。織田親族の誇りを胸に戦国を駆け抜けた武将の、あまりにも壮絶で無惨な落日の瞬間でした。