正室・濃姫が政治的な「同盟の象徴」として奥のトップに君臨する一方、織田家の実務と後継者生産を一身に担ったのが側室たちでした。その筆頭が生駒吉乃(類)です。
吉乃は尾張の有力豪族・生駒家宗の娘で、当初は土田弥平次に嫁いでいましたが、夫の討死後に信長に見初められました。吉乃の実家である生駒屋敷(現在の愛知県江南市)は、木曽川の水運と馬借(物流業者)を掌握する尾張屈指の経済拠点でした。信長は生駒家の財力と情報網を軍事行動にフル活用し、吉乃は長男・信忠、次男・信雄、徳姫(徳川信康の正室)を立て続けに出産しました。
吉乃が永禄9年(1566年)に39歳の若さで病没した際、信長は深く嘆き悲しみ、手厚く菩提を弔ったと伝えられています。
吉乃の死後、織田家の後宮で存在感を高めたのがお鍋の方(小倉の方)です。近江の領主・小倉賢秀の妻でしたが、夫の戦死後に信長の側室となりました。お鍋の方は美貌だけでなく卓越した政治的差配能力を持ち、信長が安土城を築いた後は、奥向きの女中たちを統括する実質的な管理職として機能しました。信長の死後も秀吉から近江領内に化粧料を与えられ、信長の菩提寺である京都・大徳寺総見院の建立や法要に深く関与しています。