「とんぼ返り」の辞書的な意味は、「目的地に到着して用事を済ませた後、ほとんど滞在することなくすぐに元の場所へ引き返すこと」です。漢字表記では「蜻蛉返り」と書き、古くは飛翔する昆虫のトンボ(蜻蛉)そのものの動きになぞらえて使われていました。トンボは獲物を捕らえる際や障害物を避ける際、空中で急停止して瞬時に180度方向転換したり、軽やかに宙返りしたりする高度な飛行能力を持っています。この目にも留まらぬ速さで反転する様子が、言葉の土台となっています。
しかし、この言葉が「人が行ってすぐ戻る」という行動様式を表す慣用句として広く民衆に定着した背景には、日本の伝統芸能である歌舞伎(かぶき)の演出技法が深く関わっています。歌舞伎の立廻り(アクションシーン)において、斬られた敵役や捕手などが宙返りをして派手に倒れるアクロバット技を、専門用語で「蜻蛉返り」あるいは「とんぼを切る」と呼びます。身体を宙に翻して足裏から畳や舞台に着地するこの華麗な見せ場は、江戸から明治にかけての庶民を大いに沸かせました。
劇場文化の熱気が日常言語へと浸透するなかで、「空中で素早く一回転して元の位置に着地する」という身体動作のイメージが、いつしか「遠方へ出向き、腰を落ち着ける間もなく元の場所へ反転して戻る」という移動の比喩へと拡張されていきました。言葉の底流には、昆虫の驚くべき飛行特性と、江戸歌舞伎のダイナミックな身体表現という二重のカルチャーが息づいているのです。