なぜ皇室と貴族は、血で血を洗う戦乱へと突き進んでしまったのでしょうか。その発端は、院政を敷いていた鳥羽法皇の偏愛と後継者指名にありました。
鳥羽法皇は、長男である崇徳天皇を疎んじ、寵愛する藤原得子(美福門院)との間に生まれた近衛天皇を即位させました。崇徳上皇は院政を行える立場を奪われた形となり、強い不満を抱きます。さらに近衛天皇が17歳の若さで崩御すると、鳥羽法皇側は崇徳上皇の血統を排除するため、崇徳の弟である雅仁親王を後白河天皇として即位させました。これにより、両者の亀裂は決定的なものとなります。
同時期、藤原摂関家でも権力を握る兄・藤原忠通と、父・忠実の寵愛を受けて台頭した弟・藤原頼長が激しく対立。1156年7月に鳥羽法皇が崩御すると、都に「上皇が頼長とともに謀反を企てている」という噂が流れ、一気に緊張が高まりました。
この対立に武士が動員された結果、以下のような凄惨な人物相関図が形成されました。
【後白河天皇陣営】
・藤原忠通(摂関家・兄)
・信西(藤原通憲・ブレーン)
・平清盛(伊勢平氏の嫡流)
・源義朝(源氏の長男)
【崇徳上皇陣営】
・藤原頼長(摂関家・弟)
・平忠正(平清盛の叔父)
・源為義(源義朝の父)
・源為朝(源義朝の弟)