日本の中枢を担うリーダーたちが赤坂日枝神社へと足を運ぶ背景には、偶然や一時的な流行ではなく、数百年にわたって積み重ねられた山王日枝神社の歴史と経緯が存在します。神社の起源は鎌倉時代初期に遡り、武蔵野開拓の領主であった秩父重綱が江戸郷に山王社を勧請したことが始まりと伝えられています。その後、文明10年(1478年)に江戸城を築城した太田道灌が川越日枝神社から分霊を勧請し、城内の鎮護としました。
この社が国家レベルの崇敬を集める決定打となったのが、天正18年(1590年)の徳川家康による江戸入府です。家康公は日枝神社を徳川将軍家の産土神と定め、江戸城の総鎮守として格別の保護を与えました。明暦3年(1657年)の「明暦の大火」で社殿が焼失した際も、第4代将軍・徳川家綱が即座に動城の南西にあたる現在地(星ヶ岡)を社地として寄進し、寛文元年(1661年)に壮麗な社殿を再建させています。
風水や陰陽道において、江戸城の裏鬼門(南西)を守護する要衝に配置されたという事実は、現代の権力構造とも無縁ではありません。かつての武家政権の城郭は現在の皇居であり、その裏鬼門の延長線上には首相官邸、国会議事堂、自民党本部などの政治中枢が密集しています。つまり、赤坂日枝神社のご利益の理由を紐解くと、江戸期から続く「最高権力者の防衛と発展を祈願する聖域」という霊的・地政学的役割が、そのまま現代の国家運営中枢の守護へと引き継がれている点に行き着きます。
永田町関係者の間では古くから「大きな勝負に出る前、あるいは組閣前には山王さんに頭を下げる」という慣習が公然の秘密として語り継がれてきました。激しい権力闘争と不確実性に晒される政治家や上場企業の経営陣にとって、数多の荒波を乗り越えて江戸から東京の繁栄を支え続けてきた神域に身を置くことは、単なる神頼みを超えた「覚悟の儀式」としての機能を果たしています。これこそが、赤坂日枝神社の出世運の真相として長年語り継がれる本質です。