明治維新直後、日本政府は驚くべき法整備を行いました。明治3年(1870年)に制定された「新律綱領」において、明治政府は妾を正式な親族規範に組み込み、「妻と同等の二等親」と規定したのです。
この結果、明治5年(1872年)の壬申戸籍(じんしんこせき)では、同一戸籍内に本妻とともに「妾」という続柄が公然と記載される事態となりました。家父長制の維持と旧来の慣習を急激に変えられない過渡期の判断でしたが、この制度は欧米列強から「野蛮な一夫多妻制」として激しい批判を浴びることになります。
近代国家としての体裁を整えたい日本政府は、法改正を急ピッチで進めました。
- 明治15年(1882年)の旧刑法施行:妾制度そのものを非公認化する方向へ舵を切り、法的な二等親の規定を削除。
- 明治31年(1898年)の明治民法制定:第765条で「重婚の禁止」を明記し、法的一夫一婦制を確立。戸籍から「妾」の表記が完全に消滅。
思想家の福澤諭吉は著書『福翁百話』や『学問のすすめ』において、「妾を置くは人倫の道に非ず」と厳しく断じ、家庭内の平等を強く主張しました。一方で、日本資本主義の父と称される渋沢栄一が多数の妾を持ち、本邸の敷地内で本妻と同居させていた逸話は有名です。制度が消滅した後も、財界の実力者の間では昭和初期まで実質的な妾文化が根強く残存していました。