昭和の映画ファンやメディアの間で長きにわたって燻り続けたのが、渡哲也さんと渡瀬恒彦さんの不仲説です。民放の看板番組を多数抱えながらも、2人がテレビ画面で揃い踏みする機会は極めて稀であり、「実は共演NGなのではないか」という憶測が週刊誌などを賑わせました。
この不仲説の真相は、感情的な対立などではなく、当時の映画界特有のスタジオシステムと、役者としての徹底したプロ意識に起因しています。兄・哲也さんは「日活」の純血スターから「石原軍団(石原プロモーション)」の屋台骨へ、弟・恒彦さんは武闘派集団と称された「東映」の看板俳優へと進みました。当時、映画各社には強烈なライバル意識があり、看板俳優同士の安易な乗り入れは許されない時代背景があったのです。
さらに大きかったのが、実弟である渡瀬恒彦さんの強固なプライドでした。デビュー当時、どこへ行っても「渡哲也の弟」と冠されることに恒彦さんは強い反発を覚え、「兄貴の七光りには絶対に頼らない」「自分の腕一本で東映の頂点に立つ」と心に誓います。現場で命懸けのカーアクションや荒々しい演技に挑み続けた恒彦さんにとって、兄との安易な共演は自らのアイデンティティを損なうものに他なりませんでした。互いの立場を尊重し、役者としての領域を侵さないための「自主的な距離感」こそが、外部からは共演NGという不仲の噂に映ってしまったというのが真相です。