徳川時代に再建された2代目天守閣は、完成からわずか39年後の寛文5年(1665年)、落雷による火災で焼失しました。それ以降、江戸時代の残り約200年間および明治・大正期に至るまで、大阪城には天守閣が存在しない状態が266年も続いていたという事実は、案外知られていません。
では、今ある天守閣はいつ、誰が建てたのか。竣工は昭和6年(1931年)11月。主導したのは時の大阪市長・関一(せき はじめ)であり、建設資金を拠出したのは大阪の一般市民や財界人たちでした。
当時、大大阪(だいおおさか)と呼ばれ、人口・工業生産額で東京を凌駕し日本最大の都市へと発展していた大阪市において、市民の間から「街のシンボルたる大阪城の天守を取り戻したい」という熱烈な気運が高まりました。昭和3年(1928年)の昭和天皇即位の記念事業として呼びかけられた寄付金集めでは、わずか半年ほどで目標額の150万円を突破。現在の貨幣価値に換算して数百億円規模に匹敵する巨額の浄財が、市民や地元実業家の手で集まったのです。
天守台石垣は徳川時代のものであったため、設計陣は徳川の土台の上に建てる新天守の意匠に苦心しました。最終的に採用されたのは、大阪夏の陣図屏風(黒田屏風)に描かれた豊臣天守の優美な姿を模したデザインでした。4層までは徳川様式の白い漆喰壁、最上層の5層目は豊臣様式の黒漆塗りに金箔の虎を描くという、歴史の融和を図った独自のデザインが採用されたのです。