天正10年6月2日未明、明智光秀の謀反によって本能寺で信長が討たれたとき、息子の運命の歯車は音を立てて狂い始めました。織田政権の屋台骨は、わずか数日のうちに崩壊へと向かいます。
最も痛恨だったのは、嫡男・織田信忠の横死です。信忠は妙覚寺に宿泊していましたが、異変を察知すると誠仁親王が御座所としていた二条新御所へと移動し、光秀軍の大軍を迎え撃ちました。周囲の側近からは「京都を脱出して安土へ退避し、軍勢を再結集すべきだ」との進言もあったとされます。しかし、信忠は「これほどの謀反を起こした光秀のことだ、すでに逃走路の手配は厳重に塞がれているに違いない。無様に逃げ回って討ち取られるよりは、ここで潔く腹を切る」と決断し、奮戦の末に自刃を選びました。武田氏を滅ぼす総大将を務め、実質的な当主として軍事統率力を発揮していた信忠の死は、織田家の正統な承継構造を一瞬で消滅させました。
その後、空いたリーダーの座をめぐって次男・織田信雄と三男・織田信孝の骨肉の争いが勃発します。実はこの二人、生まれた日は信孝のほうが早かったものの、信雄の母(吉乃)の身分が高かったために信雄が次男、信孝が三男とされた経緯があり、かねて対立の下地が存在していました。
本能寺の変後に開かれた「清須会議」において、信忠の嫡子であったわずか3歳の三法師(のちの織田秀信)が織田家当主に擁立されます。これは信雄と信孝の対立を棚上げにしつつ、実権を握ろうとした羽柴秀吉の狡知に満ちた戦略でした。不満を募らせた信孝は柴田勝家と手を組み秀吉に反旗を翻しますが、賤ヶ岳の戦いで勝家が自滅すると逃げ場を失い、尾張野間大坊(源義朝が謀殺された地)で自害を命じられます。享年26。このとき信孝が遺した辞世の句は、秀吉への呪詛に満ちた凄惨なものでした。
「むかしより 主をうつ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」
一方、信孝を討つ側に回った次男・信雄は、やがて自らも秀吉の傀儡に過ぎないことに気付き、徳川家康と結んで小牧・長久手の戦いを挑みます。しかし、秀吉の老獪な外交によって単独講和を結ばされ、のちの小田原征伐後には領地替えを拒否して改易・追放されるなど、浮沈を繰り返しました。しかし、信雄の真骨頂はここからでした。豊臣と徳川の熾烈な勢力争いの中で徹底して命脈を保ち、大坂の陣でもどちらにも深入りせず生き延びた結果、徳川政権下で大名として復権を果たすのです。