名古屋市章として知られる「まる八」マークの起源は、江戸時代の御三家筆頭であった尾張徳川家に遡ります。当時の尾張藩において、藩主の持ち物や船荷、公文書を識別するための「合印(あいじるし)」として用いられていたのが「丸に八の字」でした。これが現代のまる八の由来における根幹を成す歴史的事実です。
尾張徳川家がなぜ「八」の文字を採用したのかについては、複数の有力な学説が存在します。
第一に有力視されているのが「尾張八郡説」です。当時の尾張国が「愛知・春日井・丹羽・葉栗・中島・海東・海西・知多」の8つの郡で構成されていたことから、藩領全体を統べる象徴として八を用いたという見解です。地域統合の旗印としての機能を持たせていたという点で、統治機構のリアリズムを反映しています。
第二に、儒教や神道の思想に基づく「八徳・吉祥説」が挙げられます。漢字の「八」は下に向かって広がる「末広がり」の形をしており、古来より家運隆盛や事業発展を意味するめでたい数字とされてきました。さらに、徳川家が重んじた「仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌」の八徳を象徴しているという解釈も根強く残っています。
歴史史料を紐解くと、第7代藩主である徳川宗春の時代にも、この意匠が城下の賑わいや自由な経済活動のシンボルとして機能していた記録が散見されます。単なる家紋ではなく、行政と民衆を結ぶブランドマークとして機能していた点が、尾張徳川家と丸八の特筆すべき結びつきといえます。