黒神埋没鳥居の歴史と理由を語る上で欠かせないのが、大噴火が収束した後の復旧期に起きた「発掘か保存か」を巡る集落内の議論です。
噴火によって全村避難を余儀なくされた黒神の住民たちは、避難生活が明けた後、荒廃した故郷へと戻り復旧作業に着手しました。信仰の拠り所であった腹五社神社を再興するため、村人たちは当然のようにスコップを手に取り、埋もれた鳥居を掘り起こそうとしました。神聖な鳥居が地中に埋もれたままでは神仏に申し訳が立たないという、当時の住民として極めて自然な感情による行動でした。
しかし、その作業を制止した人物がいました。当時の東桜島村長であった野添八男(のぞえ・はちお)氏です。村長は集まった住民たちに対し、次のような趣旨の説得を行いました。
「この鳥居を掘り起こして元の姿に戻すことは容易い。しかし、このまま残せば、大噴火がいかに凄まじいものであったか、自然の脅威がどれほど人智を超えているかを、何百年先の後世に無言のまま伝え続ける生きた記念物になる」
当時の混乱と生活苦の中にあって、感情的な復旧を押しとどめ、「災害遺構として保存する」という視点を持つことは極めて先駆的でした。住民たちは村長の熱意ある説得を受け入れ、スコップを置き、鳥居を埋もれた状態のまま保存することを決断しました。
この英断はやがて公的な評価を受け、1958年(昭和33年)4月28日には鹿児島県の指定天然記念物(災害遺構)に指定されました。現代でこそ全国各地で東日本大震災などの震災遺構保存が議論されますが、黒神の集落は大正初期という時代に、すでに災害伝承の本質を見抜いていたのです。