ムッソリーニ逆さ吊りの真相と理由|ロレート広場の惨劇と最期の全貌

ムッソリーニ逆さ吊りの真相と理由|ロレート広場の惨劇と最期の全貌

ムッソリーニ逆さ吊りの真相と理由|ロレート広場の惨劇と最期の全貌の見逃せないポイントをわかりやすく整理しました。

第二次世界大戦末期の1943年、連合国軍の上陸に伴い第二次世界大戦におけるイタリアの無条件降伏が現実化すると、ムッソリーニは一度失脚・幽閉されます。しかし、ヒトラーが放った特殊部隊による救出作戦(グラン・サッソ強襲)で救い出され、北イタリアにナチスの傀儡政権である「サロ共和国(イタリア社会共和国)」を樹立しました。

しかし1945年春、連合国軍の進撃と全土で蜂起したパルチザンによってサロ政権は完全に崩壊。1945年4月25日、ムッソリーニはミラノの大司教館で行われた降伏交渉が決裂すると、愛人のクラレッタ・ペタッチや忠臣たちを連れて最後の逃亡を開始しました。

ムッソリーニの逃亡ルートは、ミラノを出発してコモ湖西岸を北上し、中立国スイス、あるいはナチスの残党が潜むオーストリア方面のアルプス越えを目指すものでした。4月27日、撤退するドイツ軍の対空砲車列に合流したムッソリーニは、ドイツ空軍の軍外套とヘルメットを着用し、後部座席で泥酔した兵士を装って変装していました。

しかし、ドンゴ(Dongo)村の検問所において、共産党系パルチザン組織「第52ガリバルディ旅団」の兵士によって顔の特徴を見破られ、逮捕されます。拘束されたムッソリーニとペタッチは、ボンツァニーゴの農家に一晩監禁された後、4月28日午後4時過ぎ、コモ湖畔の寒村ジュリアーノ・ディ・メッツェグラにあるヴィラ・ベルモンテの門前に連行されました。

ミラノの北イタリア国民解放委員会(CLNAI)から「即決処刑」の命令を帯びて派遣されたパルチザン指揮官「ヴァレリオ大佐」(本名ウォルター・アウディシオ)が短機関銃を構えた際、クラレッタ・ペタッチはムッソリーニの前に立ちはだかり「彼を撃たないで!」と叫んで銃弾を浴び、絶命。直後にムッソリーニも胸部を撃ち抜かれ、61歳の生涯を閉じました。

加藤 愛美
著者

加藤 愛美

マーケティングと消費者心理のトレンドを分析し、現代のヒット商品の背景を読み解きます。