竹脇無我の早すぎる死因と闘病の真相|名作の陰にあった壮絶な光と影

竹脇無我の早すぎる死因と闘病の真相|名作の陰にあった壮絶な光と影

竹脇無我の早すぎる死因と闘病の真相|名作の陰にあった壮絶な光と影を徹底追究! 読者が気になる トピックの裏側を凝縮して配信します。

竹脇無我の若き日の足跡をたどると、正統派二枚目というスマートな表層とは対照的な、過酷な家庭環境が浮き彫りになります。父親は、NHKの看板アナウンサーとして戦前・戦後の放送史に名を刻み、「ラジオの神様」と称された竹脇昌春氏です。しかし、名声の裏で昌春氏は激務とプレッシャーから重いノイローゼに苦しみ、無我がわずか15歳の時、失踪の末に自死を遂げました。

敬愛する父親の悲劇的な死は、少年の心に癒えることのない深い傷を残しました。さらに追い打ちをかけるように、長男は早世、次男も病弱であったため、青山学院高等部に進学したばかりの三男・無我の双肩に「一家の生計を支える」という重責がのしかかります。

生活費と学費を稼ぐため、竹脇は1960年、16歳で松竹映画『しかも彼等は行く』で俳優デビューを果たしました。1965年には映画『アンコ椿は恋の花』で初主演を飾り、甘いマスクと涼やかな眼差しで脚光を浴びます。しかし当時の心境について、本人は生前のインタビューで「好きで入った世界ではなかった。自分が働かなければ家族が路頭に迷うという恐怖心だけだった」と語っています。青春のすべてを家族を養うための労働に捧げた経験が、彼に「弱音を吐いてはならない」という強迫観念を植え付け、後のうつ病発症への心理的下地を作ることになりました。

阿部 裕樹
著者

阿部 裕樹

マネー知識やキャリア形成に役立つノウハウを、初心者にも分かりやすく解説するのが得意です。