教科書や概説書における陶淵明は、「世俗の富貴を顧みず、のどかな自然を愛して穏やかに暮らした高潔な哲人」として描かれがちです。しかし、実際の一次記録や彼自身の残した詩を綿密に検証すると、そこには美談だけでは片付けられない生々しい葛藤と貧困のリアルが浮かび上がってきます。
「乞食」の詩を残すほどの切迫した飢餓
隠遁生活における陶淵明は、決して優雅な不労所得者ではありませんでした。不慣れな手つきで自ら鍬を握って耕作に励んだものの、気候の不順や害虫、さらには408年の夏に自宅が全焼するという災難に見舞われ、生活基盤は完全に崩壊します。
彼の詩集には、そのものずばり『乞食(しょくをこう)』と題された作品が存在します。「飢え来たりて我を駆りて去らしむ、行くとして何れの処にか適かんとす」と歌い出し、空腹に耐えかねて恥を忍び、近隣の家に食べ物を恵んでもらいに歩いた事実をありのままに書き残しているのです。援助を受けた相手に深謝しつつも、かつての名門の末裔が物乞いにまで身を落とした屈辱と自責の念は、痛ましいほどに詩行から溢れ出ています。
酒への依存と逃避の影
陶淵明を語る上で欠かせないのが「酒」です。彼は『飲酒二十首』をはじめ、無類の酒好きとして知られていますが、その実態は単なる風流な晩酌にとどまりませんでした。役人時代にも公費で購入できる公田すべてに酒の原料となる粘り気のある米(糯米)を植えさせようとして妻に怒られたという逸話が残るほどです。
隠遁後の極貧生活においても、友人が訪ねてくれば酒を求め、金がないときは着物を質に入れてまで酒を飲みました。過酷な現実の苦痛や王朝交代への無力感を麻痺させるための自己投薬(セルフメディケーション)としてのアルコール依存の側面があったことは否定できません。
子どもたちの不出来を嘆く「責子」の生々しさ
さらに興味深いのは、家庭人としての陶淵明の素顔です。詩『責子(こをせむ)』において、彼は5人の息子たちの怠惰さを赤裸々に嘆いています。「長男は16歳にもなるのに怠け者で並ぶものがない」「次男は勉学を嫌い文芸を愛さない」「末っ子の二人は9歳になっても六と七の数字の区別すらつかない」と愚痴を並べ立て、最後は「天命であるなら仕方がない、ただ杯の酒を飲み干すだけだ」と諦念に逃げ込みます。
後世の儒学者たちはこの詩を「謙遜やユーモアである」と擁護しようとしましたが、近代の文豪・魯迅(ろじん)は鋭く見抜いています。「陶淵明は終始飄逸(ひょういつ)としていたわけではない。怒りもすれば恨みもしたし、子どもの不出来を嘆く俗人でもあった。人間味に溢れる生身の彼を直視してこそ、その文学の真価がわかる」と述べています。