長野市と松本市の因縁を語る上で避けて通れないのが、明治維新直後の廃藩置県の経緯です。もともと信濃国は山多き地形ゆえに小藩が分立しており、善光寺の門前町として栄えた北信の長野と、松本城下町として武士・商人が集った中信の松本では、形成された文化も気質も大きく異なっていました。
1871年(明治4年)の廃藩置県当初、信州は一国単一の県ではなく、北信・東信を管轄する「長野県」(県庁:長野)と、中信・南信に飛騨国(現在の岐阜県北部)を加えた「筑摩県(ちくまけん)」(県庁:松本)の2つに明確に分かれていました。当時の松本は、広大な筑摩県の中枢として確固たる地位を築いており、誰もが将来にわたる繁栄を信じて疑いませんでした。
ところが、1876年(明治9年)6月19日、運命を狂わせる大事件が発生します。松本城内に置かれていた筑摩県庁本庁舎が、不審火によって全焼してしまったのです。この事態を受け、財政負担を減らし行政効率を高めたい明治政府は、わずか2か月後の1876年8月21日、筑摩県を電撃的に廃止。信濃国全域を「長野県」へ統合し、県庁所在地を長野町(現・長野市)に一本化することを決定しました。
「県庁を突然奪われた」という松本側の衝撃と屈辱感は凄まじいものでした。当時の記録や地元郷土史の手記には、「城下町としての矜持を一夜にして踏みにじられた」「長野に政治の中枢を奪取された」という痛切な怨嗟が記されています。この不条理とも言える統合劇こそが、現在まで語り継がれる長野市と松本市の対立の原点となったのです。