若き文武天皇(即位時は満14歳前後)を支え、実務面で法典編纂の総指揮を執ったのが、皇族代表である刑部親王(忍壁親王)と、貴族代表の実力者である藤原不比等(ふじわらのふひと)です。
『続日本紀』大宝元年(701年)8月の条には、大宝律令の編纂事業に関わった19名の功労者に対する褒賞記録が残されています。そこには刑部親王や不比等をはじめ、律令に通じた学者(下毛野古麻呂や渡来系知識人の伊吉博徳ら)が名を連ねています。
皇族である刑部親王が総裁に座ることで「皇室の権威」を担保しつつ、実際の制度設計や権限調整を取り仕切ったのが不比等でした。不比等は大化の改新(乙巳の変)の功臣・中臣鎌足の次男であり、自らの娘・宮子を文武天皇の夫人に差し入れるなど、天皇家との強固な外戚関係を築きつつありました。
不比等にとって大宝律令の完成は、単なる法典整備にとどまらず、藤原氏が将来にわたって中央政界の中枢に君臨し続けるための「官僚機構の設計図」を描き出す極めて重要な政治工作でもあったのです。