鉄砲の普及は、日本の戦国時代の様相を一変させました。それまでの合戦の主役だった「騎馬武者による一騎打ち」や「弓矢・長槍」を中心とした戦闘序列は解体され、厳しい訓練を積んだ足軽部隊による集団射撃戦へとパラダイムシフトが起こります。
戦国時代の鉄砲がもたらした影響を最も象徴する戦いとして名高いのが、天正3年(1575年)の織田信長による長篠の戦いです。信長は徳川家康と連合し、当時最強と恐れられた武田勝頼の騎馬軍団を相手に、設楽原(したらがはら)に幾重もの馬防柵を構築。大量の鉄砲隊を組織的に配置し、弾雨を浴びせて武田軍を壊滅させました。
かつて通説とされた「3000丁の三段撃ち」については配備数や運用方法を巡って諸説あるものの、信長が鉄砲を単なる個人の飛び道具ではなく「拠点を防衛し、敵の突撃を破砕する構造的火力」として完全に位置づけていた戦術的慧眼は、軍事史上きわめて高く評価されています。
さらに、鉄砲の弾丸を防ぐために城郭の構造も劇的に進化しました。土塁から重厚な石垣へ、城壁には鉄砲を撃ち出すための「狭間(さま)」が無数に穿たれ、安土城や大坂城に代表される壮大な近世城郭の誕生を促す契機ともなったのです。