日本人の苗字が劇的に増えた契機は、1875年(明治8年)に布告された「平民苗字必称義務令」です。それまで苗字の公称を許されていなかった庶民が一斉に名乗りを上げた際、役場の窓口や名主の判断で多種多様な名字が記録されました。しかし、極端に長い苗字のルーツをたどると、単なる思いつきではない明確な歴史の必然性が見えてきます。
代表例である勘解由小路(かでのこうじ)の由来は、平安時代の律令官職と平安京の町並みに直結しています。平安初期、官吏の交代時に不正や引き継ぎ漏れがないかを監査した役職が「勘解由使(かでのゆし)」でした。この役所の庁舎に面した小路(通り)が「勘解由小路」と呼ばれるようになり、その通り沿いに邸宅を構えた藤原北家日野流の公家一族が、そのまま邸宅地名を家名として名乗ったのが始まりです。烏丸通や油小路通と同様の命名様式ですが、役職名と地名が融合した結果、類まれなる長名と優美な響きが誕生しました。
一方、謎に包まれた左衛門三郎(さえもんさぶろう)の由来は、武家社会の「輩行名(はいこうめい)」と「百官名(ひゃっかんな)」の名残です。平安後期から江戸時代にかけて、男子には「左衛門府の役職」にあやかる通称をつけ、三男であれば「左衛門三郎〇〇」と呼ぶ慣習が広く存在しました。明治新政府から「速やかに苗字を届け出よ」と迫られた際、先祖伝来の誇りある通称をそのまま名字欄に書き込んだ武芸者や豪農がいたと推測されます。ただし、後代の相続や戸籍再編の過程で短縮されたり、長すぎる表記が敬遠されて別姓へ改称されたりした結果、現代における定着を阻んだと考えられます。
また、東四柳(ひがしよつやなぎ)のように地形や屋敷のランドマークをそのまま名前にしたケースもあります。盛岡藩の城下町や宿場町の東側、あるいは4本の柳の木が植えられた辻の東側に居を構えていた有力者が、周囲からの通称を正式な家名として登録したものです。日本の苗字文化は「官職」「地名」「方位・自然物」の3要素が複雑に交錯して成立していることがよく分かります。